のーまねー、のーふりーだむ

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偏差値70台の高校は、沖木島的だった

2017/06/05

 

インターネットの秩序を保つため、いつものようにはてなブックマークを監視していたところ偏差値30の高校は、間違いなくジャパリパークだったという増田(はてな匿名ダイアリー)がバズっていました。

 

書き手は自身が通っていた偏差値30の高校を人気アニメ・けものフレンズの舞台「ジャパリパーク」という比喩で表現しています。

 

よろしければ、『ようこそジャパリパークへ』を聞きながら読み進めて下さい。

 

 

ジャパリパークは個性を認め合う社会だ。人間と違って野生動物はできることよりもできないことのほうが多い。大抵の動物は泳げないし空も飛べないし足も大して早くない。だからこそ、擬態がうまいとかジャンプ力が高いとかとか、できることが光る。できないことはできなくてあたりまえ。でも、できることはすっごーいと褒め合う。この多様性を認め合う姿勢こそがジャパリパークの素晴らしさだ。

(略)

アルファベット26文字すべて書ける人はすごい、分数の割り算ができる人はすごい、アルバイトで月15万稼ぐ人はすごい、学校の近所の卵が安いスーパーを知っている人はすごい、いけすかない先生をぶん殴って退学になった人はすごい、休まないで学校に来る人はすごい、宝石職人の息子で文化祭の時ものすごい精巧なお化け屋敷を作った人はすごい、現在形の英文を過去形に直せる人はすごい、二次関数の頂点の位置がわかる人はすごい、大学に受かった人はすごい、就職できた人はすごい、ちゃんと卒業した人はすごい。

(略)

偏差値30の高校は、間違いなくジャパリパークだった

 

その後、書き手は勉強の面白さに目覚めて偏差値が倍程度の大学に進学するのですが、「できて当たり前」の雰囲気が漂う現在の環境が嫌になることもあるとのこと。

 

まるでジャパリパークのようにお互いを認め合っていた偏差値30の母校を懐かしく思うことがある、という牧歌的な話でした。

 

書き手は「この多様性を認め合う姿勢こそがジャパリパークの素晴らしさだ。」と言っていますが、その背景にはジャパリまん(※1)の供給が安定していることと、勝者も敗者も指導者も存在しない空想的社会主義のシステムがあります。

 

(※1)ジャパリまんとは、アニメ「けものフレンズ」に登場する食料である。

 

人間社会は長い歴史をかけて、〈時には過ちを犯しながら〉現在の資本主義・自由競争の世界を作り出しました。

 

ジャパリパークが本当に素晴らしい世界なのかどうか、私にはわかりません。

 

偏差値70台の高校は、沖木島的だった

私は偏差値70台後半の高校に通っていました。

 

そういう高校に通っていた人ならわかると思いますが、そういう高校に通っていなかった人がイメージしそうな「みんなキモオタで牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけている」わけでは決してありません。

 

ジャパリパークと同じように個性や多様性で満ちていましたし、ちょっと頭が良い以外、みんな普通の高校生だったと言えるでしょう。

 

その多くは勉強が好きというわけでもなく、青春らしく部活で汗を流す体育会系もいれば、早々に落ちこぼれてしまった半グレの不良もいます。

 

それでも、みんな人間として最低限の知性は兼ね備えているので、周囲の強過ぎる個性や多様性は尊重しますし、イジメなど皆無でした。

 

数学オリンピックで金メダルを取るような天才だけではなく、女子高とのパイプを持つ軟派な奴も、麻雀が強いだけしか取り柄のないただの雀士も、羨望の的です。

 

そういう意味では、やはりジャパリパークと同じくお互いに認め合い共存していたとも言えます。

 

しかし、ジャパリパーク内でもフレンズ(※2)達が擬人化する以前の野生状態では存在した動物同士の食物連鎖的・弱肉強食的な意味で言えば、間接的に殺し合わざるを得ない構造ではありました。

 

(※2)フレンズとは、アニメ「けものフレンズ」に登場する擬人化した動物の総称である。

 

エリートは、エリートであるために、周囲との競争に晒され続ける必要があるのです。

 

まずは大学受験、その後は就職活動、もしくは国家公務員試験、司法試験・公認会計士試験、などなど。

 

なんにせよ、ジャパリパークのフレンズとは違い“得意”と誇ることが許される選択肢(エリートの要件を満たす職業)は数種類しかなく、いずれにせよ、ジャパリパークのジャパリまんとは違いパイの大きさ(椅子の数)も限られています。

 

高校時代にあったはずの個性や多様性は次第に失われ、人間社会のジャパリまんである「地位、名誉、金」をめぐった熾烈なバトルが始まるのです。

 

同じクラスの友人とタイマンで殴り合いをしているつもりはありませんが、「○○の試験、A君は合格・B君は不合格」という日常風景は競争の勝者・敗者を決めるシステム以外の何物でもないでしょう。

 

そして、大学受験に合格して、就職活動や資格試験を突破すれば、それでエリートの競争が終わるわけでもありません。

 

今度はそこに集められたエリート同士で出世争いを繰り広げ、トーナメント戦よろしく最後の1人を決めるまで数十年間に渡って勝ち負けを決めていきます。

 

とうの昔に初老を迎え、やっとの思いで組織のトップに立った生粋のエリートはある大事なことを思い出して震え上がるでしょう。

 

真の競争相手は組織の外にいて、今度はそれらを相手にした本当の戦争が始まるからです。

 

エリートは、エリートであり続けるために、意識・無意識に関わらず他者との競争を中心とした人生を死ぬまで送るしかありません。

 

本来、エリートの使命は非エリート以外を導くことですが、エリートをエリートたらしめる本質は周囲と競争をし続けることにあります。

 

もっとも、競争に参加する・参加しない(不戦敗)は個人の自由ですし、競争の勝者は敗者よりも「地位、名誉、金」を得られるというのがエリート社会の素晴らしさです。

 

・・・

 

『バトル・ロワイアル(BATTLE ROYALE)』という、漫画・映画にもなった有名な小説があります。

 

記事タイトルの“沖木島”はゲームの舞台となった島のことです。

 

 

極東の全体主義国家「大東亜共和国」では、全国の中学3年生のクラスから毎年50クラスを無作為に選び出し、「プログラム」と称する殺人ゲームを実施していた。

プログラムに選ばれた生徒たちはゲームのために確保されたエリアに集団で送り込まれ、生き残りが一人になるまで殺し合いを続けることを強要されるのだった。

西暦1997年、香川県城岩町立城岩中学3年B組がプログラムの対象に選ばれた。

クラスの42人は修学旅行のバスの中で眠らされ、ゲームの舞台となる島「沖木島」へ送り込まれた。

生徒たちの中には、ゲームへの参加を止めるよう働きかけようとする者、状況に絶望して自殺する者、仲間を募って協同で防衛を試みる者なども現れたが、状況を受け入れてクラスメートたちの殺戮に走る生徒もおり、生存者は刻一刻と減っていく。

主人公・七原秋也は親友が想いを寄せていた女子生徒である中川典子を助け、転校してきたばかりの川田章吾と共同戦線を張りながら脱出を模索する。

一方で、クラス一の優等生である桐山和雄は類まれなる能力を駆使し、クラスメートたちを容赦なく殺戮して回る。

最終的にこの4名が生き残り最終決戦となる。

激戦の末に桐山を倒した七原・中川・川田は、プログラムを監視している教官と兵士たちを欺いて倒す。

川田はこの最後の戦闘で致命傷を負い死亡するが、七原と中川は脱出に成功する。

 

大東亜共和国が「プログラム」を実施する表向きの理由は“陸軍が行う戦闘シミュレーションで、所要時間などの各種統計を重ねるため”とされていました。

 

しかし、真の目的は“互いに見知った者同士による殺し合いという状況を見せつけることで国民の間に相互不信をもたらして、反政府勢力の結集による革命を防ぐこと”だったそうです。

 

ちなみに、優勝者には最高権力者である総統直筆の色紙と、生涯を通じて生活の保障が与えられます。

 

強制参加は鬼畜の所業ですが、一応、社会的な評価と経済的な豊かさは得られるみたいで良かったです。

 

・・・

 

エリート同士の戦いにおいては、バトル・ロワイアルのように実際の死人が出ることはないでしょう。

 

(いや、待てよ、たまに死人も出ているような気がしますね。。。)

 

しかし、戦争に勝ち続けなければ生き残れないという条件と、winner-takes-so-muchの構造はエリートの世界でも一緒かもしれません。

 

今思えば、偏差値70台後半の高校に入学した時点で〈いいえ、本当はもっと前から〉エリートとしての生存競争は始まっていました。

 

私自身は割と早い段階で脱出(ドロップアウト)してしまいましたが、これはつまり、エリートの価値観では敗北を意味します。

 

高校を退学させられたり、大学受験に失敗したり、私よりも更に早く脱出(ドロップアウト)していったかつての学友達が今も元気であることを祈るばかりです。

 

偏差値70台後半の母校、そしてエリートの世界を懐かしく思う気持ちは、今のところありません。

 

さて、そろそろ近所の猫に餌でもやりに行こうと思います。

 

今日は以上です。

-サラリーマン日記