毎月50万円くらい稼ぐアフィリエイターの記事外注サービス

というやつを運営してます。今日も元気に営業中。

詳細はこちら

上から目線で被害者扱いされる情報弱者と愚行権

 

いつものようにインターネットをパトロールしていると以下の記事がバズっていました。

 

 

話題の中心はインフルエンサーのビジネスに対する問題提起です。由々しきことだと思いますが、一方で、どうしようもないことだと思います。

 

ところで、一方的に上から目線で被害者扱いされている情報弱者は本当に不幸なのでしょうか。それは本人にしかわからないことです。

 

経済格差=知能格差

現在の経済格差は知能格差が原因であることがはっきりとわかっています。要するに、豊かな人は頭が良い、貧しい人は頭が悪いというあまりにも残酷過ぎる現実が存在しているのです。

 

 

知能指数は約8割が遺伝で決まります。残りの要因についても外部環境の方が大きいため、いわゆる教育で解決できる問題ではありません。実は貧困が連鎖しやすい理由はほとんどこれだけで説明できてしまいます。

 

つまり、決して誰かが何かの努力を怠ったからというわけではないのです。

 

冒頭の記事に登場するような情報弱者も同じです。精神を病むと正しい判断ができなくなるのはたしかですが、これは鶏が先か卵が先かという議論に似ています。

 

そして、世の中から情報弱者が消えることがない以上、情報弱者を鴨にするビジネスが消えることもありません。これまでもそうであったように、今後も姿形を変えて繰り返されるだけです。

 

この世から搾取を目論む商売人がいなくならないことが確実なのであれば、情報弱者は保護されるべき存在なのでしょうか。それも簡単な話ではありません。

 

愚行権という自由

愚行権はジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に登場する概念です。

 

愚行権とは、たとえ他の人から「愚かでつむじ曲りの過ちだ」と評価・判断される行為であっても、個人の領域に関する限り誰にも邪魔されない自由のことである。

 

 

例えば、私は身体に悪いとされている煙草を吸います。更には毎日のようにお酒を飲みに行きますし、ついでにギャンブルまでしちゃう愚か者です。自分で言うのもアレですが、いかにも情報弱者っぽいです。

 

そんな私を見た情報強者が「煙草もお酒も身体に悪いから止めなさい。ギャンブルもお金の無駄だから止めなさい」などと私の自由を制限してきたら、善意しかないとしても余計なお世話というものです。

 

私はニコチンとアルコールとアドレナリンでストレスフリーな方がより健康的で幸せな人生を送れると信じているかもしれません。どれだけ馬鹿げた理由だとしても、法を犯したり他人に危害を加えない限り、愚行権があります。

 

もし明日から煙草もお酒もギャンブルも取り上げられたとしたら、その瞬間は間違いなく幸福度が下がるでしょう。いつか感謝する日が来るのかもしれませんが、それは認知の限界を超えているのです。

 

同じように、大学を辞めてプロブロガーになりたいという人間のことを一方的に上から目線で情報弱者扱いしがちですが、彼等は高収入サラリーマンよりも低収入プロブロガーの方が幸せだと信じているかもしれません。

 

恐らく失敗して就職する可能性の方が高いとしても、彼等の自由を制限することはできないですし、認知の限界を超えたアドバイスは本人にとって「余計なお世話」にしかならないのです。

 

父親的温情という不自由

先日、ハワイ州で煙草が購入できる年齢を100歳まで引き上げるという法案の審議が始まりました。この法案を提出した議員は医者のようです。

 

州は、国民の健康を守る義務があります。たばこはどんな処方薬よりも致命的かつ危険であり、中毒性も高い。恐ろしい依存症の奴隷となっている人々を、その隷属から解放するのです

 

このように、強い立場にある者が弱い立場にある者の利益のために(本人の意志は問わずに)介入・干渉することを父親的温情と言います。医療などの分野では必要とされていますが、愛煙家の人間にとっては上から目線の「余計なお世話」でしかないかもしれません。

 

私もそうですが、99%の人間は愚か者です。みんながみんな賢者のように振る舞いたいわけでもないですし、何事も個人の自由を尊重する社会の方が良いような気もします。

 

能力は遺伝、成否も運、人生なんて所詮はガチャみたいなものです。あれやこれやと考えたところで結局うまくいかないことの方が圧倒的に多いのですから、せめて束の間の幸福感に浸っていたい(浸らせてあげたい)と思うのは私だけでしょうか。

 

今日は以上です。

コメント

  1. yuko より:

    人によって幸せだと感じるものは違うので、周りがどうこういう資格はないんだろうなぁということを改めて感じました。
    指摘したりする側は、相手の幸せを願って言ってることだと思いますが、人それぞれなんだという意識を持つことも大切なのかなぁと思いますね。